①ー7.8.9

◆漢文(原文)
有八龍王。難陀龍王。跋難陀龍王。娑伽羅龍王。和脩吉龍王。徳叉迦龍王。阿那婆多龍王。摩那斯龍王。優鉢羅龍王等。各與若干。百千眷屬倶。

有四緊那羅王。法緊那羅王。妙法緊那羅王。大法緊那羅王。持法緊那羅王。各與若干。百千眷屬倶。

有四乾闥婆王。樂乾闥婆王。樂音乾闥婆王。美乾闥婆王。美音乾闥婆王。各與若干。百千眷屬倶

▲訓読よみ
八龍王あり、難陀龍王・跋難陀龍王・娑伽羅龍王・和脩吉龍王・徳叉迦龍王・阿那婆多龍王・摩那斯龍王・優鉢羅龍王等なり。おのおのそこばく百千の眷屬と倶なり。

四緊那羅王あり、法緊那羅王・妙法緊那羅王・大法緊那羅王・持法緊那羅王なり。おのおのそこばく百千の眷屬と倶なり。

四乾闥婆王あり、樂乾闥婆王・樂音乾闥婆王・美乾闥婆王・美音乾闥婆王なり。おのおのそこばく百千の眷屬と倶なり。

◎現代語訳
八大龍王もその場に集まりました。難陀龍王、跋難陀龍王、娑伽羅龍王、和脩吉龍王、徳叉迦龍王、阿那婆多龍王、摩那斯龍王、優鉢羅龍王です。 おのおのの龍王が10万の龍を従えていました。

また四緊那羅王もいました。法緊那羅王、妙法緊那羅王、大法緊那羅王、持法緊那羅王の四王です。 おのおのの王が10万の緊那羅を従えていました。

樂乾闥婆王・樂音乾闥婆王・美乾闥婆王・美音乾闥婆王という四乾闥婆王もまた、おのおの10万の乾闥婆を従え、そこに集っています。

★そのこころは??
インド神話にも登場する龍王族、緊那羅族、乾闥婆族の名だたる代表がそれぞれ数え切れないほどの仲間を連れて一堂に会しています。それだけでも30万をゆうに超える数です。
これはいったい何を意味するのでしょうか。
法華経説法スタートの場に集まった全てのものの紹介が間もなく終わります。その光景を思い浮かべてみてください。

(柴又帝釈天題経寺の彫刻「妙法蓮華経序品第一」と、王舎城があったラジギール)

nannda
※注釈

●龍(りゅう)

古代インドでは、ナーガと言う半身半蛇の形であったといわれていますが、中国や日本を経て現在の龍の形になったと言われています。 その代表格が八大龍王です。 日本各地では、水の神として各地で民間信仰の対象となり、日照りが続くと龍神に食べ物などを捧げて、僧侶の雨乞い祈祷が行われてきました。
仏教と、そして人間の守護神として、日本全土に広まりました。

●八大龍王(はちだいりゅうおう)

①難陀(なんだ)・・・海洋の主で龍王の中で一番優れているとされています。 難陀とは、「歓喜」という意味があります。

②跋難陀(ばつなんだ)・・・難陀の弟。釈迦仏入滅の後は永く仏法を守護した。 兄より も気性の荒い竜王と言われますが、国土を守り、国王を導くと伝わる護国の龍王です。お釈迦様入滅の後、永く仏法を守護したといわれています。

(右写真は、難陀龍王像)

③娑伽羅(しゃから)・・・龍宮の王で、大海という意味があり、「大海龍王」とも言われ ます。のちの提婆達多品第十二に登場する八歳の龍の女の子は、この龍王の三女ですが、それはまた後のお話。

④和脩吉(わしゅきつ)・・・「多頭」という意味で、九頭竜信仰の基になったといわれて ます。須弥山(後に説明)を守護するといわれています。

⑤徳叉迦(とくしゃか)・・・眼毒とも訳され、その眼で睨まれると心の中の欲や迷いを消 し去るといわれている。

⑥阿那婆達多(あなばだった)・・・「清涼」と訳され、人の世界をを潤すと言われていま す。ヒマラヤに住むという伝説は有名。

⑦摩那斯(まなし)・・・「大力」という意味です。阿修羅が、帝釈天の居城である喜見城 を海水で攻めた時、身をていして海水を押し戻したと言われています。

⑧優鉢羅(うはら)・・・「青蓮華」と訳され、「美しい眼」という意味があります。

kinnanna●緊那羅(きんなら)

インド神話に登場する歌の神です。その歌声はあまりにも美しく、人の心のけがれを祓い、清浄にすると言われています。仏教においては帝釈天に付き従い、その守護神とされています。 お釈迦様の前で8万4千の音楽を演奏し、摩訶迦葉がその歌声に我を忘れて立ち上がって踊りだした、という故事が有名です。
ここでは、その代表たる四緊那羅王が登場しますが、それぞれのいわれはさだかではありません。

(右写真は、国宝 緊那羅像)

 

 

kenndatu●乾闥婆(けんだつば)
緊那羅と同じ帝釈天につかえる神。半神半獣の奏楽神団で、大勢の神の居る宮殿の中で美しい音楽を奏でる事に責任を負っています。 酒や肉を食べず、香りを栄養とする為に訪ね歩くため食香とも呼ばれ、自身の体からも香気を発するといわれています。その身から冷たくて濃い香気を放つため、サンスクリットでは「変化が目まぐるしい」という意味で魔術師のことも「乾闥婆」と呼ばれ、蜃気楼の事を乾闥婆の居城に喩え「乾闥婆城」と呼びます。 ここでは、その代表たる四乾闥婆王が登場しますが、そのいわれはさだかではありません。

(右写真は、国宝 乾闥婆像)